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1995年のあんかけスパゲッティ 後編

さてこうやってあんかけスパとの出会いについて書いているわけだが、実はこの当時「あんかけスパ」という言葉はない。
なんと呼ばれていたかと言うと単に「スパゲッティ」である。
ではどうやって普通のスパゲッティと区別していたかというと、区別していなかった、というのが真相のようだ。

先日、ミラカンの到着を待ちながら私は先輩にいくつか質問をぶつけていた。
「こういうタイプのスパゲッティ屋って名古屋だとけっこう他にもあったりするんですか?」
「こういう、とは?」
「こういう、その、カルボナーラとかペペロンチーノとかじゃない、かと言ってナポリタンとかでもない、、、」
「ああ、言われてみればここにはカルボナーラもペペロンチーノも無いなあ。けどああいうのはもっとおしゃれなスパゲッティ屋で食べるもんだでねえ。こういうスパゲッティ屋はだいたいこんな感じだわ。ナポリタンは喫茶店で食べるもんだし」

微妙に噛み合わないやりとりの中からわかった事。
この手の店は決して多くはないが他にも昔から存在しており、最近増えてきた「おしゃれな」スパゲッティ屋と共存している。
名古屋人にはその事が当たり前すぎてそれをことさら特別視する事もないし、そもそもそれが名古屋ならではだなんて思っていない。
ミラカン、サンジェルマン、バイキング、などの不思議なメニュー名はこのタイプの店ではだいたい共通だし味もだいたい似たようなものである。

私が特に最後のメニュー名の件で驚いていると、先輩はこともなげに言った。
「だってカルボナーラはどこに行ってもカルボナーラでしょう。ミラカンだってどこに行ってもミラカンに決まってるがね」

言われてみればその通りである。

先輩は店から会社に戻る途中こんな事も言っていた。
「そうかあ、ああいうスパゲッティは特殊だったのかあ。言われてみれば確かにカルボナーラとかあの辺とはぜんぜん違うわなあ。そんな事考えたこともなかったわ」。

そんな事からもお分かりの通り、当時あんかけスパは全国的には全く無名だった。
なにせ本当に無名、ノーネームだったのである。

数日後、私はまた別のスパゲッティ屋にいた。
今回は1人だった。
そしてそこが「例のタイプの」スパゲッティ屋であることは充分に確認した上でのあえての来店である。
なぜそんな選択をしたのか今でもよく思い出せない。
最初はショックで半分残し、
2度目はひたすら我慢しながら食べた。
なぜそのような物に三たび挑戦しようと思ったのか。
その時もうれつに腹が減っており、あのイチハンのデカ盛りが恋しかったというのもあるかもしれない。
ただそれだけではなかったと思う。
きっとその時点で何かが気になっていたのだ。

今回はメニューをよくよく吟味した。
まず苦手な赤ウィンナーは断固として避けねばならぬ。
あと、玉ねぎを中心に炒めた野菜も、あれによってどうしても土曜のお昼にオカンが作る適当メシっぽくなるが故に避けた方が良かろう。
となると、今回はあのソースの味をしっかり確認する意味でも具が細かく散らばったもの(後に私はそれを混ぜもん系と名付けた)ではなく何かしら固まりの具が乗っかったもの(後に私はそれを乗せもん系と名付けた)にすべきである。
私が吟味に吟味を重ねた結果選択したのは
ピカタ1.2(いちにー)
であった。

ピカタはよく知られた洋食メニューだが、意外と外食で食べる機会は少ない料理である。
それがたっぷりとスパゲッティの上に盛られているのはなかなか嬉しい眺めであった。
後に私はあんかけスパの店によってはピカタと言いつつただの豚肉入り卵焼きを出す店がある、というかその方が大多数だという事を知るのだが、その店が正しい洋食屋のピカタを出す数少ない店の一つであったことはその出会いにおいてたいへんラッキーなことであった。

まずはそのピカタの一切れを、スパゲッティ山の麓に広がる樹海ならぬ赤茶色ソースに絡めて食べる。
その時だ。
その時ようやく私は重要な事を理解したのだ。
これはまぎれも無い「洋食」だ。
それはもちろんピカタそのものが正しく洋食屋のピカタであったからこそでもあるが、それ以上にそのソースが、である。
前回まではその表面的な味の濃さや、赤ウィンナーや玉ねぎの地味なようでいてしたたかな主張にまぎれて、そしてまたイタリアンのトマトソースとのあまりの隔たりから受けるショックで気づけずにいたが、そのソースは確かな洋食屋の味がその奥底にあった。

日本が誇る日本オリジナルの料理体系「洋食」。
その真骨頂とも言えるデミグラスソース。
それを世界の森林地帯に生息する誇り高きオオカミに例えるなら、このソースはオーストラリアにのみ生息する有袋類のフクロオオカミのようなものなのではないか。

そして私はその時もう一つの重要な事にも気付いた。
ラードである。
皿全体からふわりと立ち上る豊かな香りは確かにラードのそれであった。
過去2回、どうしてもフレッシュなアーリオオーリオすなわちニンニクの風味を移したオリーブオイルの香りを無意識に期待してしまっていた私は、このラードの香りを単なる鈍重で田舎臭い匂いと処理してしまっていたことを自覚した。
最初それは肉屋のコロッケ同様、ピカタの調理に使われたものかと思ったが、どうも単にそうではなく麺そのものがラードで炒められていたのだ。

その麺、白きラードを纏いて、赤茶色の樹海に降り立つ。

これまでは茹でたてアルデンテではない事の残念な気持ちがどうしても先立ち、見落としていたが、麺そのものの食感にも独特の魅力がある事にも気付いた。
それは確かに茹で置いた麺を炒めた物には違いなかったが、完全に茹で抜いた物をさらにケチャップの水分と共に炒めたナポリタンのようなぷよぷよのそれとはあきらかに似て非なる物であった。
後でわかった事だがその食感はこのようにして産み出される。
まず、2.2㎜の極太麺を、アルデンテどころかはっきりと芯が残った状態に茹でる。
それを一晩寝かせる事で少ない水分は麺全体に行き渡り、言うなればごく低加水の半生麺のような状態になる。
それを今度はひたひたのラードで、炒める、揚げると言うよりはもう少し低い温度でコンフィのように穏やかに火を入れる。
これによってあの独特のムチムチとした食感が生まれるのだ。
店によってはこの最後の段階で油の温度を上げたり、あるいはいったん油を切った物をフライパンの熱い鍋肌で炒めなおすことで表面を焼き締め、さらにメリハリのあるテクスチャーに仕上げることもある。

そもそもは一度にたくさんの注文を短時間でこなすために最適化された方法ということなのかもしれないが、それにしても手が込んでいる。
そしてあの洋食屋ならではのこれもまた時間と手間をかけつつもシンプルに仕上げられたソースとの相性という意味では、まさにこれしかないという一つの完成系なのかもしれない。

とまれ私は3回目にしてようやくこの食べ物に対する偏見と嫌悪感を払拭したのだ。
幸か不幸か。
そう、新しい好物が、しかもかなり大物のそれが増えたという意味では間違いなく幸せな事であった。
不幸はと言えば、この極めてハイカロリーかつその気になったらどれだけでも食べられてしまう悪魔の食べ物は、後年、私自身の無慈悲な体重増加に少なからぬ貢献を果たしてしまうのだが、それはまた別の物語である。


おわり







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プロフィール

イナダシュンスケ

Author:イナダシュンスケ
業態開発とメニュー開発を中心に飲食店の雑用全般。enso / Erick south / Erick curry などなど。
ただしこのブログは完全プライベートであります。
偏り気味の食文化論、役に立たない食べ物ウンチク、飲食店の愉快でトホホなリアルライフ、そしてたまにはヒット数稼ぎの阿漕なレシピ公開、好きなものを好きと言うだけの中身の無い雑談、などをだらだらと垂れ流す予定です。
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