もう一人のばあちゃん、ハイミー、たらこマヨネーズ
- 2015/07/23
- 21:43
前回中国料理マニアだった母方の祖母の話を書いたが、父方の祖母も料理上手とその界隈では有名であった。
一度などは素人ながらラジオの料理番組で得意料理の「煮しめ」の作り方を披露するほどであった。
収録前の取材でダシは何でとるのかと聞かれた祖母は、本当なら焼き干しの鮎だが最近はなかなか手に入らないので専らハイミーであると答えた。
ラジオ局側としてはそれでは番組になりにくいので、そこは鰹ダシか何かという事にしてもらえないかと提案したらしい。
すると祖母は、山の料理に海のダシを使うなんてありえない、と説得力があるのか無いのかよくわからないけどとりあえずなかなか文学的な理屈で頑としてそれを拒否、一時は収録自体があやぶまれたそうである。
結局そのあたりは「お好みのダシで」とかなんとかでゴニョゴニョとごまかして放映されたとの事。
ついで、と言ってはなんだが祖父の話もしておこう。
祖父は完全な下戸だった事もあってか、甘味にはずいぶんうるさかった。
基本ハイカラ好みで、ヨックモックのシガールなどは祖父が特に愛してやまない菓子の一つであった。
元祖スイーツ男子である。
某教育委員会体育連盟の協会理事長というガチムチの役職でこの属性というのは当時としてはかなり飛ばしたキャラ設定だったようだ。
中元や歳暮にはヨックモックだけでなくモロゾフ、ユーハイム、ゴンチャロフ、といったところのきらびやかな洋菓子詰め合わせが山のように届いた。
祖父は毎年庭で採れた梅で梅酒ではなく梅シロップを漬けた。
しばらく寝かせ、夏にはそれをキリンレモンで割って飲ませてくれた。
その年の漬け方の工夫を聞かされながらそれを飲むのは夏休みの楽しみの一つであった。
たまにそれはうまいこと(?)発酵し、シュワシュワ感と微量のアルコールを生成した。
そうなると祖父は自分ではそれを飲めなくなるのにも関わらず、してやったりと満足げであった。
まさかの発酵男子しかも常在菌である。
教育畑の要職に就く者が酒税法を軽いトーンでぶっちぎるのはいかがなものかであるが、まあおおらかな時代であったしそもそも時効であろう。
またある時祖父はジューサーミキサーを導入し、それで果物ジュースを作るのにもずいぶん凝っていた。
これは砂糖ではなく蜂蜜をたっぷり使うのがコツとの事だったが、それはそれで甘くなりすぎるという事で、今度はそこにさらに野菜を加えるというのを発明した。
元祖スムージー男子である。
ただしこちらは、少なくとも子供の私にとってはマズいことこの上なかったというのが正直なところである。
初物と言えば、私が生まれるよりさらにだいぶ昔、発売されたばかりのキユーピーマヨネーズを村に最初に持ち込んだのはこの祖父であった。
最初に開けたひと瓶は当時まだ少年であった私の父親が毒見し、その時はその酸味のせいで「こはやっせん。ねまっちょっど。(これはだめだ。腐っている。)」と判断されまるまる捨てられたらしい。
そしてその後ふた瓶めが開けられて初めて「こはこげんとやっど(これはこういうものである)」と認識されると共に、食べ方もよくわからないまま近所におすそ分けもされた。
各家庭で持て余されていたであろうマヨネーズであるが、その後祖母と隣家の主婦の茶飲み話をきっかけに、それを使った料理が発明された。
それは村を流れる小川で釣れるオイカワやハヤといった川魚を酒塩で煮てそのまま冷まし、引き上げてマヨネーズを塗った物であった。
びっくりするほどフランス料理なそれは当時しばらくの間村内で大流行したと言う。
そしてさらに祖母により革命的なマヨネーズ料理が発明された。
たらこマヨネーズである。
ポシェした川魚の冷製マヨネーズ仕立て、の方はその後歴史の闇に埋もれたが、このたらこマヨネーズはそれから十数年にわたり朝食の定番小鉢として納豆や焼き海苔と共に食卓に上る事になった。
もちろんご飯のお供としてである。
確かにそれをご飯にのせて海苔でくるりと巻いて食べるのは子供の頃の私にとっても大好物であった。
時代を鑑みると私の祖母は日本で最初にたらこマヨネーズを考案した人物である可能性があると私は考えている。
私が20代後半でそれまで勤めていた会社を辞めて料理で身を立てる事を決め、両親にそれを報告に行った時の事である。
私の中でそれはもう完全に決定した事であったし今更どうこう言われる年でも無いと思っていたのだが、両親は予想以上の猛反対でちょっと大変な事になった。
しかし私をどれだけ説得しようが暖簾に腕押しである事を察した両親はそのうちお互いが言い争いを始める始末。
「お前が美味いものを作って食わせるからこいつがこうなってしまった!」
「何を言ってるのあなたがあちこち美味しい店に連れ回したからでしょう!」
はたから見れば完全にコントであったが笑うわけにもいかず私はうなだれた振りで必死で笑いを噛み殺すしかなかった。
前回と今回の記事を書いてて改めて気付いたのだが、私はその時こう言って2人をなだめるべきだったのではないだろうか。
「お父さんお母さん、あなたたちだけのせいではありません。あなた方のご両親も同罪です」。
一度などは素人ながらラジオの料理番組で得意料理の「煮しめ」の作り方を披露するほどであった。
収録前の取材でダシは何でとるのかと聞かれた祖母は、本当なら焼き干しの鮎だが最近はなかなか手に入らないので専らハイミーであると答えた。
ラジオ局側としてはそれでは番組になりにくいので、そこは鰹ダシか何かという事にしてもらえないかと提案したらしい。
すると祖母は、山の料理に海のダシを使うなんてありえない、と説得力があるのか無いのかよくわからないけどとりあえずなかなか文学的な理屈で頑としてそれを拒否、一時は収録自体があやぶまれたそうである。
結局そのあたりは「お好みのダシで」とかなんとかでゴニョゴニョとごまかして放映されたとの事。
ついで、と言ってはなんだが祖父の話もしておこう。
祖父は完全な下戸だった事もあってか、甘味にはずいぶんうるさかった。
基本ハイカラ好みで、ヨックモックのシガールなどは祖父が特に愛してやまない菓子の一つであった。
元祖スイーツ男子である。
某教育委員会体育連盟の協会理事長というガチムチの役職でこの属性というのは当時としてはかなり飛ばしたキャラ設定だったようだ。
中元や歳暮にはヨックモックだけでなくモロゾフ、ユーハイム、ゴンチャロフ、といったところのきらびやかな洋菓子詰め合わせが山のように届いた。
祖父は毎年庭で採れた梅で梅酒ではなく梅シロップを漬けた。
しばらく寝かせ、夏にはそれをキリンレモンで割って飲ませてくれた。
その年の漬け方の工夫を聞かされながらそれを飲むのは夏休みの楽しみの一つであった。
たまにそれはうまいこと(?)発酵し、シュワシュワ感と微量のアルコールを生成した。
そうなると祖父は自分ではそれを飲めなくなるのにも関わらず、してやったりと満足げであった。
まさかの発酵男子しかも常在菌である。
教育畑の要職に就く者が酒税法を軽いトーンでぶっちぎるのはいかがなものかであるが、まあおおらかな時代であったしそもそも時効であろう。
またある時祖父はジューサーミキサーを導入し、それで果物ジュースを作るのにもずいぶん凝っていた。
これは砂糖ではなく蜂蜜をたっぷり使うのがコツとの事だったが、それはそれで甘くなりすぎるという事で、今度はそこにさらに野菜を加えるというのを発明した。
元祖スムージー男子である。
ただしこちらは、少なくとも子供の私にとってはマズいことこの上なかったというのが正直なところである。
初物と言えば、私が生まれるよりさらにだいぶ昔、発売されたばかりのキユーピーマヨネーズを村に最初に持ち込んだのはこの祖父であった。
最初に開けたひと瓶は当時まだ少年であった私の父親が毒見し、その時はその酸味のせいで「こはやっせん。ねまっちょっど。(これはだめだ。腐っている。)」と判断されまるまる捨てられたらしい。
そしてその後ふた瓶めが開けられて初めて「こはこげんとやっど(これはこういうものである)」と認識されると共に、食べ方もよくわからないまま近所におすそ分けもされた。
各家庭で持て余されていたであろうマヨネーズであるが、その後祖母と隣家の主婦の茶飲み話をきっかけに、それを使った料理が発明された。
それは村を流れる小川で釣れるオイカワやハヤといった川魚を酒塩で煮てそのまま冷まし、引き上げてマヨネーズを塗った物であった。
びっくりするほどフランス料理なそれは当時しばらくの間村内で大流行したと言う。
そしてさらに祖母により革命的なマヨネーズ料理が発明された。
たらこマヨネーズである。
ポシェした川魚の冷製マヨネーズ仕立て、の方はその後歴史の闇に埋もれたが、このたらこマヨネーズはそれから十数年にわたり朝食の定番小鉢として納豆や焼き海苔と共に食卓に上る事になった。
もちろんご飯のお供としてである。
確かにそれをご飯にのせて海苔でくるりと巻いて食べるのは子供の頃の私にとっても大好物であった。
時代を鑑みると私の祖母は日本で最初にたらこマヨネーズを考案した人物である可能性があると私は考えている。
私が20代後半でそれまで勤めていた会社を辞めて料理で身を立てる事を決め、両親にそれを報告に行った時の事である。
私の中でそれはもう完全に決定した事であったし今更どうこう言われる年でも無いと思っていたのだが、両親は予想以上の猛反対でちょっと大変な事になった。
しかし私をどれだけ説得しようが暖簾に腕押しである事を察した両親はそのうちお互いが言い争いを始める始末。
「お前が美味いものを作って食わせるからこいつがこうなってしまった!」
「何を言ってるのあなたがあちこち美味しい店に連れ回したからでしょう!」
はたから見れば完全にコントであったが笑うわけにもいかず私はうなだれた振りで必死で笑いを噛み殺すしかなかった。
前回と今回の記事を書いてて改めて気付いたのだが、私はその時こう言って2人をなだめるべきだったのではないだろうか。
「お父さんお母さん、あなたたちだけのせいではありません。あなた方のご両親も同罪です」。
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